2009年7月5日日曜日

「速く動こうと考えるな、速いと知れ」

「What are you waiting for? you're faster than this. Don't think you are. You know you are.」
(速く動こうと考えるな、速いと知れ)
この言葉は、私の人生とって最も影響を与えた映画である「MATRIX」の中での、モーフィアスの言葉である。自分の「力」を完璧に信じきれず、完全なる覚醒をする事が出来ない主人公ネオに対して発せられた言葉である。この言葉は私の人生において、実に色々な場面で頭に浮かび、私を助けてくれた言葉でもある。頭であれこれ考える前に、まずは「出来る」と信じる事。そして「出来る自分」を「知る」事。言葉で言うのは簡単ではあるがとても難しい事である。「出来る」と信じる事は何となく出来る。しかし、「出来る自分」を「知る」事とはとても難しい。今までそこまで行けた事はただの一回、踊っている時に・・・だ。

出来るか出来ないかを決めるのは周りの環境などももちろん左右するが、「自分」が決めるのである。最初から出来ないと思っていれば、絶対に出来ない。出来るはずも無い・・出来ると思ってないのだから・・まずは「出来る」と心から思う事。そしてそれを信じる、疑いの無い強い気持ちを持ち、出来る事を知る事。
ならば不可能なんてこの世には無い・・と言う事になる。私はそれを信じる。私の今までの人生、不可能で終わってしまった事柄などは星の数ほど多くあった。そしてこの言葉に出会い、今はっきりと言える。不可能で終わってしまった事柄は恐らく自分の「力」を完璧に信じきれて無かったのであろう。と。そこには必ず「諦め」と「妥協」があったはずである。
良くするのも悪くするのも、自分次第。自分の事を信じきれない自分だからこそ、この言葉を念頭に置き、不可能を可能にしていこう。と思う。のですが・・・

2009年4月13日月曜日


突然ですが・・・

私の創っている草履は、タイプが大きく分けて3種類ございます。
http://homepage3.nifty.com/zoriya/products.html
基本であるPRODUCT 1を軸に、鼻緒の素材を蛇皮で創るPRODUCT 2、素材である七藺草を黒色に染めたPRODUCT3があります。
PRODUCT 2、PRODUCT 3の鼻緒には蛇皮(パイソン)を使用するのですが、蛇皮っていつも、もの凄いパワーを感じるのです。(単純に触っているだけで手が軽く痺れてきます・・何か他の病気?)牛革、豚皮には無い、何か別の種類のパワーがあるように想えます。
爬虫類が持つ、無機質で冷徹な感じ・・少々大げさですが、恐怖に近いモノも感じたり・・・。
かつてはこの地球上に君臨していた爬虫類。そのプライドがクールな魅力をかもし出し、私を魅了するのでしょう。
そして何より、蛇は「神」の使い。「神」という言葉に非常に弱い私などのような者は、その事を考えただけでも、扱う時軽くびびってしまいます。心の中で「失礼します」を繰り返し、草履に編み込んでいくのですが、何度やっても(作っても)この緊張感には慣れません。
しかし、その分出来上がった時のかっこよさは格別なモノがあります。

何なんでしょうね?? このかっこよさは・・・ロックを感じずにはいられません。
蛇・・・これほどまでに草履に似合う動物はいないように想えます。

「蛇様、これからもよろしくお願いいたします」

2009年4月10日金曜日

エゴロジー

ここ最近の「エコ」ブームも、いつの間にかすっかりビジネス色が強くなってきましたね。
各企業こぞって「えこえこえこ・・・」もはや「エコ」と言っていればモノは売れる。そんな時代になってきました。「エコ」と言っていれば何割増しか、おりこうさんに見え、優良企業のイメージがつきやすい。実にいい作戦だと想います。(エコ草履に名前変えよかな・・)
人間が生きて行く上で、もはや絶対に必要なモノになったしまったエネルギーに関してはこれから大きなシフトチェンジが来るでしょうね。間違い無くそこはビッグビジネスになるはずで、お金に飢える人間にはたまらない世界が広がっているはず・・・
最近ニュースでやってましたが、政府もこれからハイブリッド車を購入する方には最大25万円のキャッシュバックを行うとか・・・一見政府が二酸化炭素問題に真剣に取り組んでいるように見えますが、自動車メーカーからの巨大な圧力も見え隠れしますね。(基本的に政府は大企業に逆らえませんから・・お金いっぱいもらってるし。)
しかし、プリウスにはなるべくなら乗りたく無い私のような人間や、新車などとてもじゃないけど買えそうに無い私のような人間には関係の無い話です。本当に真剣に二酸化炭素の問題を考えるなら、なぜ、「高速道路1000円均一」などするのでしょうか?そのことにより車での移動が増え、土日の二酸化炭素の排出量は断然増えた事でしょう。言ってる事に一貫性が無く、笑ってしまいます。(笑)
さて・・
ところで、地球温暖化を引き起こす二酸化炭素・・・しかし、一説では(私はこの方が定説だと想える)二酸化炭素の影響は余り関係ないらしく、単純に太陽の力が強くなっている事が原因だと言います。もしそれが事実なら、二酸化炭素が何もしゃべらない事をいい事に、誰かが二酸化炭素を悪者にして金儲けをしているとしか想えません。二酸化炭素ビジネス。(ろ◯ちゃいるど・・・目の付けどころが違います)

まぁしかし、地球を大事にしようと想う気持ちを持った人間が増えた事自体は非常に「エコ」な感じがしていい事だと想います。
私としては本当の事が知りたいだけです。これからも色んな方向からの視点を持ち、インフォメーションを得、自分なりのインテリジェンスを持てる様に心がけよう!と想う今日この頃・・・


最近、私なりの「エコ」として、ぶらさがり健康機を買いました。
( 違うか?!)


2009年3月31日火曜日

スピリチュアルマインド

最近はゲリーの影響ですっかりスピリチュアルマインドに戻っている私です。
しかし、スピリチュアルマインドも困ったものでありまして、春の陽気も手伝い、気を抜けば「ぼけ〜っ」と、してしまいます。いかん、いかん・・・まだこの世は「分離(セパレーション)」の時代。と、自分に言い聞かせ・・・現実、仕事もしないといけないので、二元性の中スピリチュアルを楽しんでおります。

あれからまた何冊かスピリチュアル本を読みました。
(徳間書店の五次元文庫、ヤバイです)

その中のゲリーの言葉に、こんなのがありました・・・
「人間の凄い所は、無限の大きさを持つ(意識)という巨大なエネルギーをこの小さな体(器)にとどめていると言う事です」と。
そんな方向から、この件を考えた事が無かった私はその言葉に大きなショックを受けました。そして気が付けば目をつむっていました・・・。
真っ暗な瞼の裏側に広がる暗黒は正に宇宙そのものの様な気がしました。その暗黒は無限の広さを持ち、想うがままでありました。何処にでも行けたし、何にでもなれました。
こ、これがゲリーの言う、意識とは無限の広さを持つという事なのか・・と、勝手に解釈。改めて無限を実感できた瞬間でありました。

そして、何よりこれは全ての人間に言える事。老若男女、年齢問わず・・だから凄い!
言い方を変えれば、全ての人間はこの小さな体に全員、宇宙を持っているという事。(あの、果てしない巨大な宇宙が、この身長165センチの私の体にも入っている・・・お〜まいが〜)
そんな風に想いながら街を見回してみると、またまたおもしろい。いっぱい宇宙達が歩いています。ミクロはマクロ。マクロはミクロ。何だか嬉しくなりました。単純に・・・
「大きさ」というモノを勝手に決めつけているのは自分自身なんですね・・・

今後、「身長何センチ?」と聞かれたら、(もはやあまり聞かれませんが・・)
「本当は果てしなく無限に近いが、取り急ぎ165センチの体に入ってます」と答える事にしよう・・・。

2009年3月28日土曜日

2012

先日、久しぶりに、本屋の「精神世界」コーナーに行ってみた。
最近のスピリチュアルブームの影響か、数多くの怪しい本が並んでいる・・・(この怪しさが好きなのよ・・)
その中でも特に「2012」をキーワードにする本の多さにびっくりする。
「2012年まで、あと3年か・・・」と改めて心に言い聞かせる。この「2012年」というキーワードに始めて出会ったのは今からちょうど10年位前だ。ゲリーボーネルという人が書いた「光の十二日間」という本があった。この本との出会いは当時の私の思考を遥か宇宙の彼方にぶっ飛ばすほどの力を持っていた。180度考え方が変わり、生き方の道しるべとなって、今の私を創ってくれている。その本のテーマが正に「2012年」であった。

簡単に言うと、人類の意識は2億年前(2億年前って言ったら、恐竜時代でっせ!)からこの地球に存在していて、1万3000年という時間(期間)ごとに「合一(ユニティ)」と「分離(セパレーション)」という時代を繰り返している。というもの。もちろん現在は「分離(セパレーション)」の時代。私は私。貴方は貴方。という時代である。決して、全てが一つ!という時代では無い。そして、なんと、現在、今、は1万3000年続いて来た、「分離(セパレーション)」という時代の終わりの地点だという。だから、ゲリーボーネルは言う。間もなく「合一(ユニティ)」という今迄と全く違う、光の時代が来るので、それに備えよ。と。(そのシフトチェンジにおけるパワーが一番強まる時が、2012〜2013年だという)
何と、ドラマチックな話なのだろうか・・・当時、マヤの暦にハマっていた私は、一気にのめり込んだ(マヤの謎ともリンクしていた)

あれから10年・・・あと3年となった現在。正直なところ、期待と不安が入り交じる。
この時代(分離)しか知らない私にとっては、この時代は故郷であり、全てである。確かにこの世は納得できない事、信じられない事も多くある。しかし、善と悪があり、光と影があるこの世界。まんざら悪くない・・・そんな想いにかられていた近頃であった。

そんな事想いながら、本を見ていると、輝く一冊の本があった。
「新・光の十二日間」と書いてある。(マジですか〜!!)早速、購入。
新たにわかった情報などが加えて書いてあった。改訂版である。
しかし相変わらず、ぶっ飛ばしてくれます。宇宙の果てまで・・・
また新たに、光もいいね〜と想い直す。(単純・・)

本当にその時が来るのかはまだ誰にもわからない。しかし、この本を読んでいた。のと、読んでいなかった。のでは、大きな差が出るのは間違い無い。信じられない事、聞いた事の無い事、学校で教えてくれなかった事が数多く書かれています。とりあえず読んでおくにこした事は無い。
そして、今回、こんな事が書いてあった・・・
「光の力が強まると、闇の深さも増す」と。
まさに現在の世界情勢ではありませんか・・・

せっかくですから、全ての愛する者、全ての愛する仲間達と行ってみたいと想う今日この頃・・・

しかし、おとんとおかん、大丈夫かな・・・

2009年3月24日火曜日

テレポーテーション

「 五百万光年の彼方にある惑星マルディック。二つの月を有する、青緑に輝くその惑星には、どうやら大気も存在するらしく、雲が見受けられる。生命の源である水が存在すると言う事だ・・。青緑で二つの月があると言う事以外は本当によく地球に似ている・・。」

これを読んだ時、みなさんの頭の中にはマルディックのイメージが浮かんだ事だろう。宇宙の闇に浮かぶ二つの月を持った、青緑の惑星マルディックを・・・。光の速さでも五百万年かかるその場所に、イメージ(想念)だと、一瞬で行ける。実は光よりも速いモノが存在する。それが「想念/想い」である。想いは自由であり、無限であり、無料である。

私は最近、この想念という力の存在が気になり、よく考えるのである。
しかし、想念というモノも、ただ想うだけではなかなか現実になりにくく、現実にならないものは実感がわかないモノである。そこで想うのだが・・恐らくそこには「信じる」という力が必要なのではなかろうか??「想い」に、強く「信じる」力がミックスされた時・・・それは「現実」になって現れる。

話は変わるが・・・
それを実感したのが、今日のWBC決勝でのイチロー選手のヒット(延長での)。
日本中から、遥かアメリカへ注がれた数百万の「想い」と、彼への「信じる」力が最高の現実を生み出した。彼は最後のインタビューで、「神が降りて来た」と語った。その「神」こそ、皆の想念の塊だったのではなかろうか・・・


私達は何処へでも行ける。はず。

2009年3月12日木曜日

なでしこ



最近、珍しく女性の草履を作る事が続いた。
( 私の草履の8割は男性からの発注である )
女性の草履を作る事。女性に対しモノを作る時、いつも決まって私は相当のストレスを感じる。
しかし、そのストレスは決して嫌なものでは無い。ある意味「未知の領域への挑戦」への「不安」と言ったほうがいいかも知れない。男である私に、はたして女性を納得(満足)させられるモノが作られるのか??という想いにいつも悩まされる。
比べて、私にとって男性用の草履を作るという作業は非常に容易な事である。なぜか??
それは私が男であるからで、私の中にある「かっこいい」を全てぶつければいいからである。
そこには、「かわいい」はいらない。かっこよければいい世界なのである。
しかし、未知の領域である「女性」という世界には、それだけでは通用しないモノがある。身近でありながら、人生で一度も体験した事のない「女性」という生き方・・・感性。
わからない事だらけである。
どんな強い男も、強がっている男も女性から産まれるという事実。人間という生き物を産み出す地球も言い方を変えれば、我々にとっての「母」であり、「女性」であるはずだ。
考えれば考えるほど「女性」という存在がデカくなり、わからなくなる。

そして、願わくば女性は男性よりも「美しく」あってほしい。それは表面上だけでは無く、内面的にも・・・。
だから私は女性の草履を作る時、頭の中で「美しく・・美しく・・美しくなれ〜・・美しく・・そして、可愛く・・可愛く・・可愛くなれ〜」と、イメージする。
これを少しでも怠り、無意識になってしまうと、私の中の「かっこいい」イメージが無意識に現れ、「かっこいい」ベクトルに傾いてしまうのである。
私は想うが、「かっこいい」は男性の専売特許であり逆にこの領域には女性に入って来てほしくない。( その最たるモノがROCKである )
その分、女性は「美」という最高の世界に生きる事が出来、そしてそれが許される。

話はそれたが・・・
私にとって女性の草履を作るという事は、「美」という、私にとって未知であり、そして憧れの世界に貢献できる(かも知れない)作業なのである。

そんな事を考えながら・・・
最近、女性用の草履に「なでしこ」という名を付けた。


追伸:
ちなみに、なでしこジャパンとは一切関係ありません。

2009年2月24日火曜日

秘湯




本日、湯治に行って参りました。(なにせ季節の変わり目は、古傷が痛むので・・)
ここ数年は主に大分(九重の筌ノ口温泉)ばかりでしたが、
今回は3年ぶりに熊本方面に行く事にしました。
九州の温泉は下(南下)に行けば行くほどヤバくなります。やはり、阿蘇、桜島と活火山があるからでしょうね。ゆっくり時間があればもちろん鹿児島の霧島温泉郷に行くのですが、(鹿児島の温泉は最強です)それほど時間も無かった為、熊本の「植木」という地にある宮原温泉郷の元湯旅館に行く事にしました。私の中の数有る温泉ツアーのルートの中でも熊本北部ルートなら、いつもは「植木」の少し北にある「山鹿」という地にある「さくら湯」(このさくら湯は全国でも数えるほどしか存在しない千年湯という千年の歴史がある湯でございます。お湯は透明のぬるぬるのお湯で、美人湯の代表格です)に行くのですが、今回は新たなお湯の発掘の為、専門書で探し、目星をつけ、元湯旅館に決めました。なんと言ってもそのたたずまい・・古い日本家屋です(築100年)。そして、湯治場。
見て頂ければわかると想いますが、赤茶けた湯・・間違い無く鉄分を含んだ湯の証拠。筌ノ口の湯に似ている。私の大好きな部類の湯種である。この手の湯は筋肉痛、関節痛に効く。もちろん飲む事も可能。(湯を飲めるという事はその温泉が本物である証拠)ちなみにシャワーなどちゃらちゃらしたものは無い。(シャワーが無いのも本物の証である)
そしてふと、湯船横の壁に目をやると・・・
「チンポコ お尻 よく洗い、お湯の中では タオルは嫌よ」と、
突然のそれほどウマくない一句。
了解しました!チンポコ、お尻、しっかり洗い、いざお湯へ・・・
間違い無く源泉の湯。最高レベルである。ゆっくりと入った。いつも想う事であるが、九州の温泉のいい所はこれほどの温泉なのに、人があまりいないという事である。(恐らく、九州は各地に温泉の数が多い為、旨く人が分散していると想われる。平日だから・・という噂もあるが・・)貸し切り状態の中、感謝の気持ちに包まれながら湯治ができた。400円でこのクオリティ・・さすが九州。ありがとう、元湯旅館。
そして、湯治を終え、ノドの渇きを潤わそうと想い自動販売機のオロナミンCを飲もうと想ったが、恐ろしいほど値段が高かったのでやめておいた・・・(写真参照)
お・・おもろすぎる・・・
帰り道は、先にも書いた「山鹿」を通るので、もちろん「さくら湯」もハシゴいたしました。
相変わらずのぬるぬるの湯にお肌もクリスタルもピカピカになれました。(ちなみにさくら湯は大人150円。)

九州最高。愛ラブ九州・・ラ・九州。これだから九州やめられまへん。です。

追伸:
一夜明け、体の軽さに驚く。
元湯旅館おそるべし。是非!

2009年2月19日木曜日

「 驕れる白人と闘うための日本近代史 」



ここ最近、自分の中での第四期幕末ブームである。
十代最後の頃に出会った小説「竜馬がゆく」によって始めて幕末に生きた志士達に興味を持ち、かれこれ20年。その間も、人生ここぞ!という時には何故かその時代(幕末)の本を読みあさっていたような気がする。恐らく幕末という時代に生きた志士達(侍)の生き様にROCKを感じ、そしてその生き様にインスパイアされたかったのだと思う。
自分の志の為に命を捧げる・・・単純に憧れる生き方だが、私のようなハンパ者にはとても真似が出来るものでは無い。幕末という時代には多くの熱き志を持った侍達が登場する。そして死んでいく・・・。戦いの中で死ぬ者・・自ら切腹によって死ぬ者・・斬首によって死ぬ者・・
彼らの死は歴史を作り、そしてそれを動かしていく・・・
(ロックミュージシャンと志士達・・両者の生き様は短命である所に共通点がある。何故かかっこいい奴は早く死ぬ)
しかし、その生き様には何とも言えぬ、切なさを感じずにはいられない・・・。

さて、そんな男達がこの日本という国にはいた。という事実。
それもついこの間の事・・である。(約140年前)
今の日本を見回した時、とても不思議な気持ちになる。
よくもま〜これほどまでに変われたものだと・・・(色んな意味で)そして想う。あの志士達の魂はいったい、何処へ行ってしまったのか??
もしかしてあの時代に全滅したのだろうか???
熱き志を持って生きていた我々の先祖達の魂はいずこへ・・・

さてさて、最近、「驕(おご)れる白人と闘うための日本近代史」という本に出会った。
まず、そのタイトルにヤラれた。何とストレートでパンクなタイトルなのか・・・それも著者は女性である。瞬間、購入し、読んだ・・・
海外(ドイツ)での永年の生活の中から語られる著者の言葉、知識は今迄読んで来たどの本とも違う新しい視点から日本を捉えており、とてもいい勉強になった。明治維新によって多くを得、多くを失い過ぎたこの国へ著者は言う。「日本人よ自信を持て」と。日本と言うこの国には「自信」に値する歴史と文化があるからだ。
「日本人としての自信を持つ。」混沌とした現在の世界情勢の中、驕れる西洋諸国と渡り合っていくには、この基本的な気持ちは決して忘れてはいけないと想う。
歴史の中に命を落としていった志士達の為にも・・・

と、言う事で是非読んでみて。

2009年2月17日火曜日

Imagine all the people....

目の前にある全てのモノは、人間の脳が創り出したイメージによって創り出されるモノである。(自然以外の人工的なモノに限る)

脳にも色々な個性があるだけに、そこから生まれるイメージは数限り無く存在する。
モノ(草履)を創る私も、日々イメージしている。イメージする事の大事さは痛いほどわかっているつもりである。この「イメージする」という作業を少しでも怠ると、出来上がるモノは文字通り「イメージ通りでは無い」モノになり、再度やり直し。という時間の無駄を味わう事になる。そうならない為にも私は、イメージする時間は特に大事にしている。
そして、おもしろい事に、しっかりとイメージ出来ている場合は、「それ」に向かって自然と手は動くものなのである。イメージ通りに出来上がった時の嬉しさは何とも言えぬものがあるのである。
そして、「イメージ」とは、どちらかと言うと「未来」に対して行う、とても前向きな作業であると思われる。
何も無い所にイメージし、モノを創り出す・・・神が我々に与えてくれた才能の一つである。
イメージは時に設計図を作り出しビルを建てる。時に楽譜を作り出し音楽を奏でる。一日の動きをイメージし、それに従って動く。イメージは(ここで言う)いつも現在の少し前に対し行われる作業である。要するに「未来」を左右させるのは、「現在」においての「未来」に対するイメージにかかっていると言っても過言では無いであろう。
今、イメージされた事は、必ず未来を創っていく・・・全てが自分の思いのままの未来になるとは勿論限らないが、どうせなら良いイメージを頭の中に沢山持っていたほうがいいだろう。イメージとは無限であり、そして何より・・・無料(タダ)である。

話は変わるが・・・
この国の政治家達は本当にちゃんとした「未来」をイメージできているのだろうか??
はなはだ疑問である。
そもそもイメージできる脳がまだあるのだろうか??
これまた最大の疑問である。
(イメージする力は年齢と共に衰えるものだから・・)
見ていると「未来」というより、「現在」「過去」にふりまわされているように思えてならない。
しっかりと未来を「想像」し、良き未来を「創造」していただきたい。と想う、
今日この頃・・・

2009年2月11日水曜日

裸足の季節 - 第二楽章 -

寒い日が続きますが、私の足は寒くありません。
相変わらず裸足の季節真っ直中でございます。
前回の「裸足の季節 - 第一楽章 -」では、裸足の生活において、「クツシタ」という存在と決別した(できた)事を書きました。しかし、なぜ寒くないのでしょう?確かに年々足の皮膚が厚くなり寒さに慣れた・・という事が言えるでしょう。でも、それだけじゃ無いんですね〜。
今から書く事は、私が永年の草履生活から教わった「日本の流石」の一つです。
そもそも「鼻緒」というものは日本人が生み出したモノです。今日ではビーチサンダルに代表されるように、世界中でその形は継承されています。日本人にのみならず、世界中の人達が「鼻緒」の素晴らしさを体験しています(特許取っておけば良かったですね〜)。やはり、究極のデザインなのでしょう。無駄が無く、歩くのに最も適している最小限の機能を兼ね備えています。
話は少しそれますが、良いデザインとは、機能=デザインという図式のバランスが均等になっているモノだと想います。無駄が無く、全てに意味(理由)があるモノは自然とその姿は美しくなり、飽きのないデザインとなるのです。前にも散々書きましたが日本文化の「衣食住」は、すべてにおいてこのバランスが保たれていたので、美しかったのでしょうね。
話を戻します・・・
草履という履物は、至ってシンプルな構造になっております。付いているモノは「鼻緒」しかありません。そうなんです・・「鼻緒」しかないのです。しかし、この「鼻緒」・・実は凄い奴なんです。
「鼻緒」は足の親指の股で引っ掛けます。足の親指は足の指達の間でもリーダー的存在でありまして(さすがお父さんです)、彼に力が入ると、自然に他の指達もそれに習い動き出します。もう一度言います・・動き出すのです。
足の指が動き出す・・・動き出す事によって血行が良くなり、温まる。人間の構造上、当たり前の事実です。言い方を変えれば、足の指を(自然に)動かす為に「鼻緒」とはあのようなデザインになっているのです。「冷え性」という特に女性を悩ますモノがありますが、あれは単純に足の指が動いてない、という理由が考えられます。(女性は男性よりも血管が細いという理由もあると思いますが・・)女性の靴を見れば正に一目瞭然ですね。先のとがったパンプス・・ハイヒール・・あれでは動かすどころか、締め付けてしまっています。血行はすこぶる悪くなり、冷たくなる。そりゃ冷えるでしょうね・・・
私などにとっては、あのような履物は「謎」であります。
先にも書きましたが、この例は機能=デザインのバランスが等しくなく、相当「デザイン」に片寄っている為、機能的では無い「モノ」になってしまっています。鼻緒の履物を履いていた昔の女性達は足の指が(自然と)動いていますから「冷え性」は少なかったのでしょうね。「外反母趾」などは皆無だったと思います。

しかし、そうは言っても、会社に行くのにスーツに草履では課長にどやされるのは間違いありません。が、胸を張って言いましょう。
「私は日本人ですから!」と・・・「私は大和撫子ですから!」と・・・
(クビにならない程度にしておいてください)

話はまたまたそれましたが・・・
寒い時こそ、鼻緒の履物で歩く。足の指を動かす。特に冷え性の方は心がけてみてください。
いい事しか待ってませんから・・・

つづく。たぶん・・・

2009年2月4日水曜日

今、日本は空前の漢字ブームだという・・・

さて、
一番好きな漢字は?と聞かれたら、すかさず「無」と答える・・・。
私はこの言葉(文字)に何とも言えぬ神秘を感じずにはいられない。
これほどまでに東洋文化特有の価値観を凝縮された文字はないだろう。
この一文字には、「無い。」以上の「有る。」があるからだ。
私はその中でも、「何も無い中にある美しさ」が好きだ。
何も無い中にある美しさとは、まるで生まれたての赤ん坊のようである。
何も付けず、何も持たずに生まれて来る赤ん坊は、「無」欲であり、「無」邪気であり、そして「無」限である。沢山の「無」を纏い生まれて来る赤ん坊は可能性を多く含んだ「有」である。そして何より、美しい。
要するに「無」という言葉には、「有」の無限の可能性が含まれる。

何とも前向きで壮大な言葉なのであろうか・・・

無駄を嫌い、全てにおいて無駄を省き進化してきた日本文化にとって、この「無」という言葉の重み、深みは正に真髄だと想う。
考えれば・・・なぜ日本文化はこれほどまでに美しく進化してこれたのか?と想った時、
そこにはいつも、必ず、「無」の精神があったはずである。全く無駄の無いものだからこそ持てる美しさ・・・
例えば禅寺に漂う「無」のオーラ・・。そこには何も無い。神も居ない。無限の静けさがあるだけである。目の前に何も無いから目を開ける必要は無く、目を閉じる。するとそこは、無限の宇宙がただ広がっている・・・。ただ・・無い・・という意味が「無」では無い。
私は無限の「有」を感じるこの「無」という言葉(文字)が大好きなのである。

それともう一つの好きな理由・・・それはこの「無」という文字のデザインである。
そもそも漢字にはそれぞれに意味があり、そのモノ自体が省略化&簡略化され、そのデザインに進化してきた。はず。
そこで、ふと想った・・・
「無」とは基本的に「無い」と言う意味。ならば、モデルにするモノ自体も「無い」わけで、
「無い」モノを文字にするという事は非常に難しい作業であるはず。しかし、この「無」という文字は他の文字に負けるどころか、群を抜いて完璧なデザインで存在しており、無いはずなのに、今、目の前に有る・・・
それでは、この文字のモデルは一体何なのか?
(また私の悪い癖である。すぐに答えを探そうとする・・)
「無」をじっと見つめた・・・ただ見つめた・・・
すると不思議な事に、どんどん心から感情が消えていく・・・悠久の時間が流れた。
「これが、無心・・なのか??」気が付けば、目をつむっていた・・
すると瞼の裏にはっきりとある姿が現れた。何とそれは、かの有名なアダムスキー型UFOであった。無・・宇宙・・アダムスキー・・
なんとなくそれらは私の頭の中で線になる・・・
「そっか・・なるほど!先人達はあれを見たのね。見てしまったのね・・。」
(また私の悪い癖である。すぐに直感だけで答えを決めつける・・)

誰にもその答えはわからない・・・

そして、そもそも「答え」などと言うものは、この世には「無い」のかもしれない・・・

2009年2月2日月曜日

裸足の季節 - 第一楽章 -

松田聖子のデビュー曲(古い・・)。ですが、別にその事を書くつもりは全くありません。
年中、裸足に草履で過ごす私にとっては、春夏秋冬、裸足の季節であり、もはや裸足が特別なものでは無くなりました。裸足に草履。の生活を始めてかれこれ10年。お陰で、真冬の寒さにもすっかり耐えられる足が出来上がりました。
しかし、最初の冬は寒かった!・・なぜ・・こんな冬に俺は裸足なのだ???と、自問自答を繰り返しておりました。(答えは草履を履くから・・なんですけどね)しかし、裸足に草履という生活を貫き通し、それにより年々足は強くなっていきました。
で・・その事で一体、何を得したか??
何と、気が付けば「靴下」というアイテムが、身の回りからすべて無くなっていたのです。(もちろん、今も一足も持ってません。自慢)もともと「クツシタ」というアイテムに愛を持てなかった私にとっては「もう、君の世話になんかならないよ」的な、優越感に浸る事ができました。ところで、「クツシタ」ってなんか面倒くさいアイテムだと思いません?? 

一、急いでいる時、同じのが揃ってなかった時などパニックになる。
一、収納時、ペアにする作業はまるでパズルの様だ・・。
一、特に夏場など、単純に・・・臭い。
一、旅行時、洗濯する機会が中々無い場合、バックパックの中で臭いまま保管するハメになる。
一、穴が開き、足の指が出ている姿ほど、ミジメなものは無い・・
一、心を奪われるほどのデザインが無い・・ロックを感じない・・

などなど・・・

私にとっては「クツシタ」というアイテムは好きではないが、しょうがないから履いているという存在でありました。しかし、それも「裸足で草履生活」のお陰によって関係を断絶する事ができました。

クツシタ・・グッバイ・・フォーエバー・・・

「クツシタ」嫌いの方は裸足に草履生活をオススメします。
楽ですよ〜。

2009年1月28日水曜日

住に想う。

怒濤の三部作もこれで一応完結です。
言葉が足りない面、知識が足りない面、片寄り過ぎている面は何卒ご了承ください。

さて、今回は「住」についてたらたらと書こうと想います。
「衣」「食」「住」の中でも、「住」の役目とは人間にとっての「やすらぎ」を与えてくれるものではないかと想います。日本人にとっての「やすらぎ」とは、他の国には無い独特のモノがあるように想われます。私は日本のやすらぎとは、「静」だと想っております。「静」の中にある、空虚感と言いますか・・私はそこに日本を感じてなりません。(お寺、神社に漂う、あれ・・です。)不思議な事に、そのような場所では自然と背筋が伸び、姿勢が良くなっている自分に気づきます。そして・・心が落ち着くのです。

例えば、畳。
(新しい畳表から香る藺草の香り・・やられます・・・)
日本には「畳の上で死にたい・・」という言葉があるくらい、畳と日本人は密接な関係がありました。(私の子供の頃は、まだ畳の部屋というものは多かった記憶があります。)畳とは、藁(わら)の芯(現在は発砲スチロール!!)に藺草のござをかぶせたモノ。床の素材に草を使っているあたり、なんとハイセンスな民族なのでしょう。夏は涼しく・・冬は暖かい・・ここにも日本の「流石」を感じます。
しかし、残念な事に、もはや畳の存在は飾りに近いモノになっています。それの主な原因は畳に取って代わり、「フローリングという板張り床」が主流になってしまったからです。そもそも、「フローリングという板張り床」は、靴で部屋に上がる外人さん達のもの。それを知らずに、ご丁寧に靴を脱いで上がっている日本人は、外人さんから見ればとてもこっけいに見えるはずです。実は、私の実家も、今の部屋も「フローリングという板張り床」の部屋があります。もちろん、いつもご丁寧に草履を脱いで上がっています。昔から、個人的には好きじゃなかったですね〜。なんか、冷たいし、ホコリも目立つし、
ましてや、よちよち歩きの赤ん坊にとっては命懸けの床であります。(こけて、頭打ったら死にますよ!)なぜ、「フローリングという板張り床」なのか??? 何度も理由を考えましたが、納得できるモノは見当たらず、恐らく、「フローリングという板張り床のほうが、なんとなく、お洒落じゃん」という事だけ、だと想うのです。
そもそも、昔から受け継がれてきた「畳」にはこの日本という国の「住」文化が詰まっていると言っても過言ではないと想います。この国の気候風土を考え、それに合ったものだから、代々それほど形を変える事無く、受け継がれてきたのだと想うのです。そして何より、日本人は畳に「座る」事で「やすらぎ」を感じていたのだと想います。

たかが畳・・されど畳。
私はここに日本の「住」の根本を感じます。

もう、無理をする時代は終わりました。
私達には私達にあったモノがすでに存在しています。
そしてそれらには受け継がれて来た「理由」が必ずあります。

そして最後に、麻生さん・・・
より良い日本を作りたいのなら「文化」をまず見直し、そして立て直す。
視野を広く持ち、未来に目を向けてください。この混沌とした日本を救えるのは「文化」しかありません。そして、「文化」とは、その国の宝でございます。

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2009年1月27日火曜日

食に想う。

はっきり言って、グルメでもなく、大変「食」にウトい私などが、世界一の「日本の食」に対し何を想うのか?実はそんなに想う事も言いたい事もありません。と言うか何も言えません。
ただ、毎日「米」を食せる事に感謝するだけであります。
なので・・最近気づいた事をたらたらと書こうと想います。
さて、日本の食と言えば、米。
米と言えば、めし丸くんなのであります。
(ちなみに、めし丸くんは福岡のJA全農のマスコットキャラクターであり、私が思う所の現在最強の癒しキャラでございます。わが町福岡においては連日、めし丸くんがブラウン管(最近は液晶テレビだから、もはや死語ですね)に登場しない日は無いくらいの人気者です)
彼との出会い(テレビの画面を通して・・)で私は白米の有り難さを改めて痛感させられました。日頃、当たり前の様に食している「米」。それも白米です。よくよく考えてみると、江戸時代(またかよ!)などにおいては、庶民は粟(アワ)、稗(ヒエ)、麦などの穀物(最近では逆に流行ってますね。スローライフな方々に)をメインに食し、たまにそこに米が入る・・・という、とても質素な(今と比べるとね)食生活をしていたと聞きました。当時、毎日のように白米を食せたのは恐らく、殿様か大名などの偉い人に限られていた事でしょう。

と・・言う事は・・・
今の日本人のほとんどの人が、当時の殿様と同じか、
もしかすると・・それよりもいい米を食せていると言う事になります。(おぉっなんと贅沢な!)
更に言い方を変えれば、米に関しては、「みんな殿様」。と言う事になります。
実に、鳥肌ものですね。自分が知らず知らずのうちに殿様レベルであったなんて。信長・・秀吉・・家康と肩を並べられる時が来るとは・・・
この気づきによって、白米を食せる喜びが更に増しました。

話は変わりますが・・・
日本人って江戸時代まで四つ足(牛、豚など四本足の獣)は食べなかった民族です。
肉といえば、魚か鶏。なんだかヘルシーな感じですね。理由は知りませんが、日本人に合っていたのでしょうね。もちろんそれに伴った進化をしてきたわけですから(胃や腸など)、文明開化と共に入って来た牛肉や豚肉には最初、びっくりした事でしょう(胃や腸が)。今迄日本人には無かった病気も増えた事でしょう。しかし・・・
もはや、世界の食文化交流は無限に等しく、日本人だけに限らず世界中の人達も色んな国の食生活を味わえるようになっています(先進国だけだと思いますが)。それはそれでいいと想います。「食」への欲求は動物の本能ですから・・・その中でも今、とても注目されているのが、「日本食」なのです。マクロビオティック(日本の精進料理をベースにしたベジタリアン料理)などの流行(スローライフな方々の間での)による「日本食」への見直しは流石、日本の食!と思わせる一つの要因でありました。本来、その土地で住む人間にはその土地で採れるものを食する事が一番無理が無く、自然の流れにあった事だったはずだ。と、想います。が・・・。

うまい米を食せる時こそ最高に至福の時であり、天下を取った気持ちになるのは私だけでしょうか???


追伸:
先日、親愛なる友人より、あるご指摘がありました。
当時(江戸時代)の日本人は白米では無く、玄米を食していたと言う事実・・・
やはり、「食」に関しては何も言えませんです。

ちゃん、ちゃん・・・。

2009年1月26日月曜日

衣に想う。

「衣、食、住」。
小学校の時に習った、人間の営みにとって最も大事とされる事柄です。よね。
それらには、それぞれの国の土着の文化が大きく反映されており、その国々の持つ気候風土や歴史などの積み重ねにより、進化してきたものです。まさに「文化」そのものです。の、はずです。が、今日の日本という国の「衣、食、住」を見直してみますと、この100年位の間で大きく方向性を変え、もしくは無くなったり・・・今、日本の「衣、食、住」は非常に危険な状態に陥っていると思います。言い方を変えれば、日本の文化の危機だとも言う事ができます。
そこで、今回は「衣、食、住」のうちの「衣」についてたらたらたらたらと書こうと思います。
「衣」・・・。
無くては困ります。寒いです。死んでしまいます。もちろん「衣」には寒さを防いだり、と、身を守る役目があります。しかし、それだけではありません。人間達はそこに「遊び心」を加え、文化にしてしまいました。先にも書きましたが、そこにそれぞれの気候風土が影響し、それぞれの美意識がプラスされ、様々な「衣」が生まれたのだと思います。それぞれの人種にあったものが代々受け継がれ、時代と共に進化していきました。日本にも「キモノ」と呼ばれる「衣」がありますが、今や誰も着ていませんし、着かたすら知りません。冠婚葬祭(冠婚葬祭って、その国の文化を十二分に出すものですよね)においても、もはや背広(スーツ)、ドレスが当たり前で、結婚式には白のネクタイ・・お葬式には黒のネクタイ・・と、よく考えるとワケのわからない常識にしばられているのが現実です。大体において、日本と言う国のフォーマルはキモノであります。背広にネクタイではありません。いつからこんな事になってしまったのだろう・・・歴史を辿れば、恐らく明治の文明開化で始まり、終戦後の「アメリカ」の侵入によって更に加速されていったのでしょう。先日、テレビにおいて、ある芸能人が、久しぶりにスーツを着たという事への感想に、「やっぱ、スーツは気が引き締まる!」と言ってましたが・・・私は内心、気が引き締まっているのではなく、ネクタイで首が締まってるんじゃないの〜と、思ってしまいました。
ちなみに私は西洋文化否定派ではありません。むしろ肯定派であります。
ただ、ただ、思うのは、日本の美しく素晴らしい・・世界一の「衣」の文化が失われていく事が残念なだけです。
まずは天皇陛下に、是非、フォーマルの場において毎回キモノを着て頂き、国会のおじさん方も(クールビズとかいって、わけのわからない半袖の背広を着るのではなく)皆、キモノで予算委員会に参加して頂き、サッカー日本代表も遠征時は皆、キモノ・・・(おぉ・・想像するだけで、気が引き締まりますな〜)教育の場においては「着付け」を義務授業のカリキュラムに入れる。(着付けが出来ないと大人になってから本気で恥をかきます)キモノがもっと自然になる事で、職人達も増え、扱う業者も増える(雇用も増える)→値段も下がる。そして何より、草履の発注も増える・・・。(私事ですが・・・)そんな気がします。
もう、無理をする時代は終わりました。外人さんにならなくていいのです。
昔から日本人には日本人に最も合う「衣」が存在しているのです。
私達は、手足が短く、頭、顔がでかい日本人なのです。(最近の子供達はアメリカの食文化のおかげで、体はアメリカンになって来ていますが・・・)
これからは、世界屈指の文化と歴史を持つ日本人として誇りを持ち、逆に世界に発信していくべきです。それには、まず、日本人自身が日本に興味を持ち、それを受け継ぎ、伝えていく事を忘れてはならないと思う今日この頃・・・なのですが・・・

2009年1月23日金曜日

ぞうり と わらじ(後編)


前回では主に「草蛙(わらじ)」の特徴について触れました。
いかに草蛙(わらじ)という履物がワイルド&カルチャーショックなモノであったかはご理解頂けたと思います。
さて、所は江戸時代の京(京都)・・・。当時の都でした。当時の京は日本の中心で一番のお洒落タウンでありました。全国からたくさんの人が集まりますから、各地の文化達が渦を巻き様々な新しい文化が生まれた事でしょう。恐らく「衣」(ファッション)などの面でも最先端だった事でしょうね。(その辺りも聖書「バガボンド」ではリアルに描かれています。上の絵の人物は京の侍、吉岡清十郎殿です。やはり何処か、あか抜けてますね〜)事実、京の侍は特にお洒落に敏感だったようです。そして、何より、その彼らがこよなく愛した履物が「草履(ぞうり)」だったのです。(ちなみに上の絵の清十郎殿が履いているのも草履です)さて、物事には必ず理由というものがあります。特に無駄というものを(無意識に)嫌う当時の日本人にとっては、もちろんそこに(草履を選ぶ)理由が存在いたします。大きくは三つ上げる事ができます。
一つに、前編でも書きましたが、草蛙(わらじ)という履物は「足が汚れる」のが難点でありまして、洒落者の京の侍が嫌ったらしいです。そこで、鼻緒の位置を少し後ろにずらした草蛙(わらじ)の改良版である、足の指が外に出ない履物、「草履(ぞうり)」がブレイクしたというのです。
そしてもう一つ、侍達に草履(ぞうり)がもてはやされた理由に、「すぐ、脱げる」という点がありました。当時の侍にとっては日々、生死をかけて生きてます。いつ、何時、斬り掛かられるかわかりません。勝負は突然やってきます。(私など、つくづく今の世に生まれた事に感謝してしまいます)その時に、基本的裸足の民族である日本人にとってはいかに素早く、裸足になれるか・・という事は相当大事な事でしょう。裸足はすべりませんから・・基本的に。
(そんなシーンも聖書バガボンドにおいて、しっかり描かれています。下の絵。)そういえば、小学校の運動会においてのカケッコなど、みんな裸足で走ってましたよね。私も誰に言われるとなく、自然に裸足で走ったものです。今、思えばあれは、日本人としてのHadashi daisuki DNAが自然とそうさせたのでしょう。話はそれましたが・・・要するに、すぐに裸足になれる草履(ぞうり)という履物が侍達の勝負を左右したのは言う迄もありません。
そして、最後にもう一つ・・・
草履(ぞうり)という履物は草蛙(わらじ)よりルーズに履く事ができます。ぺたん・・ぺたん・・と・・その「粋な感じ」が洒落者である京の侍達にウケたらしいです。
・・・・・・。
これで、草履と侍の密接な関係はわかっていただけたかと思います。
まぁしかし、そもそも草履(ぞうり)と草蛙(わらじ)は同じ鼻緒の履物ですが、用途が違う履物です。用途に応じて使いわけたのだと思います。

草履(ぞうり)と草蛙(わらじ)・・・
違いがわかっていただけましたでしょうか?
しかし、思うのですが、こんな常識はちゃんと義務教育の過程の中で教えてほしいものです。
大人になってから恥をかきます。(例えば外人さんに、zouri to waraji no chigai wo osietekudapsyと聞かれた時など・・)

これからも、平成の侍達に草履を作っていきたい・・・そんな所存でございます。

2009年1月22日木曜日

ぞうり と わらじ(前編)



前からいつか書こう書こうと思っていた事なんですが、
今回は草履(ぞうり)と草蛙(わらじ)の違いについてを 私にとってのバイブルである「バガボンド」(細かい所まで、非常に良く描かれています。)を参考にお教えしようと思います。
昔、私の師匠(草履の)がぽつりと呟きました。「今の日本人は草履(ぞうり)と草蛙(わらじ)の違いも知らない・・」と。そう言われて、私としてもはっきりと違いがわからない自分に始めて気づきました。そしてあせりました。草履の道を志す者がそんな事も知らないのでは話になりません。早速、草蛙(わらじ)を購入しました・・・。
見た目大きな違いには、草蛙(わらじ)にはヒモがついています。(そのヒモを足首で縛り上げ固定します。そうする事によって走る事も可能になるわけです。)そしてもう一つ、鼻緒(はなお)の付いている位置(つま先側)が違います。わらじは本体の一番先端の部分から鼻緒が立ち上がっているため、履きますと・・なんと、足の指全てが外に出る仕組みになっているのです。(上の絵でも正確に描かれています)それがどういう意味なのか・・現代のへたれ日本人の私には理解に苦しみました。
要するに、昔の日本人は足の指を外にさらけだし、足の指で大地を踏みしめていたと言う事です。(そう言えば幕末の小説などを読んでいると、諸国を旅する志士達が宿に着くとまず足を洗う。というシーンがよく出て来ます。足は特に汚れたんでしょうね。)しかし、日本人とはなんとワイルドな民族なのでしょうか?足の指をスパイク代わりにしていたとは・・・
しかし昔とは道路事情が全然違いますから(今はアスファルトですから)、現代では支持されないのもわかります。(はっきり言ってケガします)そしてもう一つ、その素材。藁(わら)を使ってますから、壊れたら、そのまま捨てる事ができます。肥やしになるんですね。まさにこれこそ「えこ」ですね。無駄が無い・・・さすが日本。です。

後編では「草履と侍」について語ろうと思います。

2009年1月21日水曜日

漢湯



昨日は湯治のため、佐賀にあります武雄温泉に行って来ました。
この温泉、近場の中では最強の温泉であります。(当然の源泉掛け流し)歴史も古く、かの太閤(秀吉)様も絶賛したと言われています。施設内に何種類かお風呂はあるのですが、何と言っても「元湯」が最高です。(入浴料300円)六畳くらいの大きさの湯船が二つあり、「ぬる湯」と「あつ湯」に分かれています。その「あつ湯」・・・。めっちゃ熱いです。気合いを入れて入らないと、火傷してしまいます。ゆっくり・・ゆっくりと・・目をつむりながら・・静かに・・そして素早く、湯船に沈んでいきます。首までしっかりつかった後は、もうそこには「我慢」しかありません。肌を突き刺す熱さに耐える事・・。忍耐。まさに男湯の中の男湯です。
そして、そこは田舎の温泉らしく、近所のおじさん達もいつも沢山いらっしゃってまして、皆で「ぬる湯」に入りながら楽しそうにおしゃべりなどをされてます。(いつもあつ湯はガラガラです)そこへよそもんの私が入って来、脇見もふらず「あつ湯」に入るものですから、おじさん達の「漢湯魂」に火がつくみたいでありまして私につられ「あつ湯」への引っ越しが始まりだし、知らぬ間に「あつ湯」において「我慢くらべ」が始まるわけです。(あつ湯は俺達のものだ!的な・・)普段、へたれな私ですが、今迄この勝負にだけは負けた事がありません。こんな事でもやってないと、「あつ湯」に長い時間入っていられないと言うのが正直な所ですが・・・とにかく今、「あつ湯」に入っている全てのおじさん達が出るまで出ない!
出る頃には頭はクラクラ・・心臓バクバク・・体は真っ赤っか・・・
しかし、体がシャキッっとなるのです。これがたまりません。
勝負が終わり、体も温まり・・ボーっとしていると、先ほど勝負していたおじさん達も私に心をゆるしてくれたみたいで「おにーちゃん、どっから来たんや?」などと話しかけてくれます。そんなあったかい・・というか、「熱い!」武雄温泉・・・最高です。
そして何より、冬の温泉あがりで履く草履・・・これがまた気持ちいいんです。(これが言いたかっただけなんですが・・・)



2009年1月14日水曜日

拝啓、めし丸様。



寒い日々が続きますが、世のニュースも日々、寒いモノが多いですね。
連日「不況」を告げるものばかり・・派遣切りによる派遣ギレ・・・タクシー強盗、などなど・・
なんだか暗い気持ちになる情報ばかり・・・DEATH。
しかし思うのですが、今の日本、本当に「不況」なのでしょうか?
「不況・・不況」とは言いますが、今迄のどの時代の、どの生活水準と比べているのだろう???まさか、あのバブル全盛期を基準にしてるんじゃないでしょうね!?あれは(私はバブル時代を体験しましたが・・)夢だったんです・・・人間という生き物は、一度いい思いをしてしまうと、感覚が麻痺してしまうようで、それまでは「贅沢」とされていた事柄も、それを一度手にしてしまうと「当たり前」に変化し、また次の「贅沢」を追い求める・・・贅沢の螺旋は「金」が無くなるまで続いていきます。
しかし、今の日本人のほとんどが、屋根のある家で暮らし、服を着て、三食しっかりメシを喰えてる・・それも白米・・・。江戸時代の庶民から見れば、なんて「贅沢」な暮らしなんだ。と思われるでしょう。
今、「当たり前(平凡)」とされているモノをもう一度見つめ直し、それに「感謝」すれば、「当たり前」が「贅沢」に変化します。

最近、白い米を食せる事の幸せを つくづく感じとります。
だよね!めし丸くん!

2009年1月9日金曜日

おじさん

本日は十日恵比寿に参ってまいりました。
実は私、今回始めて十日恵比寿という、「商売繁盛祈願」最強のイベントを体験致しました。
今迄は恐らく、自分が商売人である。という自覚に乏しかったのだと思います。今年はその辺、気合いが違います(例年比)。商売の神様(恵比寿さん)に心から祈願する事ができました。
しかし、恵比寿神社・・それも十日恵比寿。他の神社とは全然違う雰囲気とオーラを感じました。参拝にもすでに長蛇の列。もちろん私もその中に入り、順番を待ちました。ゆっくりと動く列の波に身を任せ、静かな気持ちの中、「今、この寒空の中自分と同じくここに並んでいる人達は皆、何かしらの商売をしてるんだろうな〜」などと思いながら・・・

ふと、気づきました・・・。
見ているとこの十日恵比寿では、(並ぶ事に関して)横入りする人間もいなければ、文句を言ってる人間もいない・・・皆、商売の神の前ではとてもおりこうさんなのです。(自分もしかり)この不景気の世の中が皆をより、おりこうさんにするのでしょう。(自分もしかり)周りのマナーがいいから並んでいても、とても気持ちいい時間を過ごすことができました。

しかし寒い・・・。今日は・・。
と思って、ふと、参道沿いに並んでいる「金魚すくい」の看板を見ると、「 夏の思い出に、金魚すくい」と書いてある。
「 夏 」・・・?。だったっけ・・・???
まあいいです。そこまではっきり言われたら何だか暖かくなってきました。

ありがとう金魚すくいのおじさん・・・
おじさんのお陰で心も体も暖かく、参拝する事ができました。

「恵比寿さん、今年も何卒よろしくお願いいたします(祈り)」


追伸:
えっ・・?!今日10日じゃないの??今日が9日だってこと今、知りました・・・
例年より1日気が早い・・・。それ位で調度いいでしょ。


2009年1月7日水曜日

突然ですが・・
草履の芯となるのが、「縄」でございます。
「織り」で言う所の縦糸にあたります。この「縄」がしっかりしたものであれば、しっかりとした草履になり、弱いものだと、弱い草履になってしまいます。草履の良い悪しを左右するのが「縄」と言っても過言ではありません。草履を作る上で、一番最初に行う作業が「縄なえ(縄を編む)」という作業でありまして、一番「気」を使う作業でもあります。「丈夫な草履。」をコンセプトにする私は、まず、この作業に多くの「気」を使います。
そして、おもしろい事に(あまりおもしろくありませんが・・・)草履の構造上、この「縄」は、最終的には草履の裏に隠れてしまい、全く表には出て来なくなります。(草履に縄が使われていると知る人は少ないでしょう。)一番力を使い、一番気を使ったモノが最終的に一切見えなくなる・・・。ここに私は「日本のモノ作り」の真髄を感じます。「見えない所に気を使う。」「見えない所も美しい・・・。」「見えない所、だからこそ、美しく・・・。」
私が、草履作りから教わった「日本」という文化の謙虚さと誠実さのほんの一つでございます。

昔の日本のモノが優れていた理由は、そこに決して「手」を抜かなかったのでしょうね。

2009年1月3日土曜日

事始め



日本の正月って本当にいいね。と、つくづく感じる今年の正月。
クリスマスという謎のイベントから約一週間。ようやく街の雰囲気も日本らしくなってきました。
昨夜は住吉神社へ初詣に行く事ができ、今日は近所の護国神社に参ってまいりました。
今年はいつになくゆっくりと過ごさせてもらってます。正月を。
今日は毎年正月恒例になっている自分のネックレスのレストア(修理)を行いました。
趣味でやり始め、あくまでも趣味のネックレス作りもよくよく考えると12年・・・。
この分野も無限の領域ですね。やっぱりやめられません。モノ作りは。




2009年1月1日木曜日

謹賀維新年



維新年あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。

色んな意味で維新が必要な年になりそうですが、
世の流れを自分の目でしっかりと見つめ、自分の意志を持ち、
大勇猛進の精神で突っ走る所存でございます。

皆様にとっても革命の年でありますように・・・