2009年2月24日火曜日

秘湯




本日、湯治に行って参りました。(なにせ季節の変わり目は、古傷が痛むので・・)
ここ数年は主に大分(九重の筌ノ口温泉)ばかりでしたが、
今回は3年ぶりに熊本方面に行く事にしました。
九州の温泉は下(南下)に行けば行くほどヤバくなります。やはり、阿蘇、桜島と活火山があるからでしょうね。ゆっくり時間があればもちろん鹿児島の霧島温泉郷に行くのですが、(鹿児島の温泉は最強です)それほど時間も無かった為、熊本の「植木」という地にある宮原温泉郷の元湯旅館に行く事にしました。私の中の数有る温泉ツアーのルートの中でも熊本北部ルートなら、いつもは「植木」の少し北にある「山鹿」という地にある「さくら湯」(このさくら湯は全国でも数えるほどしか存在しない千年湯という千年の歴史がある湯でございます。お湯は透明のぬるぬるのお湯で、美人湯の代表格です)に行くのですが、今回は新たなお湯の発掘の為、専門書で探し、目星をつけ、元湯旅館に決めました。なんと言ってもそのたたずまい・・古い日本家屋です(築100年)。そして、湯治場。
見て頂ければわかると想いますが、赤茶けた湯・・間違い無く鉄分を含んだ湯の証拠。筌ノ口の湯に似ている。私の大好きな部類の湯種である。この手の湯は筋肉痛、関節痛に効く。もちろん飲む事も可能。(湯を飲めるという事はその温泉が本物である証拠)ちなみにシャワーなどちゃらちゃらしたものは無い。(シャワーが無いのも本物の証である)
そしてふと、湯船横の壁に目をやると・・・
「チンポコ お尻 よく洗い、お湯の中では タオルは嫌よ」と、
突然のそれほどウマくない一句。
了解しました!チンポコ、お尻、しっかり洗い、いざお湯へ・・・
間違い無く源泉の湯。最高レベルである。ゆっくりと入った。いつも想う事であるが、九州の温泉のいい所はこれほどの温泉なのに、人があまりいないという事である。(恐らく、九州は各地に温泉の数が多い為、旨く人が分散していると想われる。平日だから・・という噂もあるが・・)貸し切り状態の中、感謝の気持ちに包まれながら湯治ができた。400円でこのクオリティ・・さすが九州。ありがとう、元湯旅館。
そして、湯治を終え、ノドの渇きを潤わそうと想い自動販売機のオロナミンCを飲もうと想ったが、恐ろしいほど値段が高かったのでやめておいた・・・(写真参照)
お・・おもろすぎる・・・
帰り道は、先にも書いた「山鹿」を通るので、もちろん「さくら湯」もハシゴいたしました。
相変わらずのぬるぬるの湯にお肌もクリスタルもピカピカになれました。(ちなみにさくら湯は大人150円。)

九州最高。愛ラブ九州・・ラ・九州。これだから九州やめられまへん。です。

追伸:
一夜明け、体の軽さに驚く。
元湯旅館おそるべし。是非!

2009年2月19日木曜日

「 驕れる白人と闘うための日本近代史 」



ここ最近、自分の中での第四期幕末ブームである。
十代最後の頃に出会った小説「竜馬がゆく」によって始めて幕末に生きた志士達に興味を持ち、かれこれ20年。その間も、人生ここぞ!という時には何故かその時代(幕末)の本を読みあさっていたような気がする。恐らく幕末という時代に生きた志士達(侍)の生き様にROCKを感じ、そしてその生き様にインスパイアされたかったのだと思う。
自分の志の為に命を捧げる・・・単純に憧れる生き方だが、私のようなハンパ者にはとても真似が出来るものでは無い。幕末という時代には多くの熱き志を持った侍達が登場する。そして死んでいく・・・。戦いの中で死ぬ者・・自ら切腹によって死ぬ者・・斬首によって死ぬ者・・
彼らの死は歴史を作り、そしてそれを動かしていく・・・
(ロックミュージシャンと志士達・・両者の生き様は短命である所に共通点がある。何故かかっこいい奴は早く死ぬ)
しかし、その生き様には何とも言えぬ、切なさを感じずにはいられない・・・。

さて、そんな男達がこの日本という国にはいた。という事実。
それもついこの間の事・・である。(約140年前)
今の日本を見回した時、とても不思議な気持ちになる。
よくもま〜これほどまでに変われたものだと・・・(色んな意味で)そして想う。あの志士達の魂はいったい、何処へ行ってしまったのか??
もしかしてあの時代に全滅したのだろうか???
熱き志を持って生きていた我々の先祖達の魂はいずこへ・・・

さてさて、最近、「驕(おご)れる白人と闘うための日本近代史」という本に出会った。
まず、そのタイトルにヤラれた。何とストレートでパンクなタイトルなのか・・・それも著者は女性である。瞬間、購入し、読んだ・・・
海外(ドイツ)での永年の生活の中から語られる著者の言葉、知識は今迄読んで来たどの本とも違う新しい視点から日本を捉えており、とてもいい勉強になった。明治維新によって多くを得、多くを失い過ぎたこの国へ著者は言う。「日本人よ自信を持て」と。日本と言うこの国には「自信」に値する歴史と文化があるからだ。
「日本人としての自信を持つ。」混沌とした現在の世界情勢の中、驕れる西洋諸国と渡り合っていくには、この基本的な気持ちは決して忘れてはいけないと想う。
歴史の中に命を落としていった志士達の為にも・・・

と、言う事で是非読んでみて。

2009年2月17日火曜日

Imagine all the people....

目の前にある全てのモノは、人間の脳が創り出したイメージによって創り出されるモノである。(自然以外の人工的なモノに限る)

脳にも色々な個性があるだけに、そこから生まれるイメージは数限り無く存在する。
モノ(草履)を創る私も、日々イメージしている。イメージする事の大事さは痛いほどわかっているつもりである。この「イメージする」という作業を少しでも怠ると、出来上がるモノは文字通り「イメージ通りでは無い」モノになり、再度やり直し。という時間の無駄を味わう事になる。そうならない為にも私は、イメージする時間は特に大事にしている。
そして、おもしろい事に、しっかりとイメージ出来ている場合は、「それ」に向かって自然と手は動くものなのである。イメージ通りに出来上がった時の嬉しさは何とも言えぬものがあるのである。
そして、「イメージ」とは、どちらかと言うと「未来」に対して行う、とても前向きな作業であると思われる。
何も無い所にイメージし、モノを創り出す・・・神が我々に与えてくれた才能の一つである。
イメージは時に設計図を作り出しビルを建てる。時に楽譜を作り出し音楽を奏でる。一日の動きをイメージし、それに従って動く。イメージは(ここで言う)いつも現在の少し前に対し行われる作業である。要するに「未来」を左右させるのは、「現在」においての「未来」に対するイメージにかかっていると言っても過言では無いであろう。
今、イメージされた事は、必ず未来を創っていく・・・全てが自分の思いのままの未来になるとは勿論限らないが、どうせなら良いイメージを頭の中に沢山持っていたほうがいいだろう。イメージとは無限であり、そして何より・・・無料(タダ)である。

話は変わるが・・・
この国の政治家達は本当にちゃんとした「未来」をイメージできているのだろうか??
はなはだ疑問である。
そもそもイメージできる脳がまだあるのだろうか??
これまた最大の疑問である。
(イメージする力は年齢と共に衰えるものだから・・)
見ていると「未来」というより、「現在」「過去」にふりまわされているように思えてならない。
しっかりと未来を「想像」し、良き未来を「創造」していただきたい。と想う、
今日この頃・・・

2009年2月11日水曜日

裸足の季節 - 第二楽章 -

寒い日が続きますが、私の足は寒くありません。
相変わらず裸足の季節真っ直中でございます。
前回の「裸足の季節 - 第一楽章 -」では、裸足の生活において、「クツシタ」という存在と決別した(できた)事を書きました。しかし、なぜ寒くないのでしょう?確かに年々足の皮膚が厚くなり寒さに慣れた・・という事が言えるでしょう。でも、それだけじゃ無いんですね〜。
今から書く事は、私が永年の草履生活から教わった「日本の流石」の一つです。
そもそも「鼻緒」というものは日本人が生み出したモノです。今日ではビーチサンダルに代表されるように、世界中でその形は継承されています。日本人にのみならず、世界中の人達が「鼻緒」の素晴らしさを体験しています(特許取っておけば良かったですね〜)。やはり、究極のデザインなのでしょう。無駄が無く、歩くのに最も適している最小限の機能を兼ね備えています。
話は少しそれますが、良いデザインとは、機能=デザインという図式のバランスが均等になっているモノだと想います。無駄が無く、全てに意味(理由)があるモノは自然とその姿は美しくなり、飽きのないデザインとなるのです。前にも散々書きましたが日本文化の「衣食住」は、すべてにおいてこのバランスが保たれていたので、美しかったのでしょうね。
話を戻します・・・
草履という履物は、至ってシンプルな構造になっております。付いているモノは「鼻緒」しかありません。そうなんです・・「鼻緒」しかないのです。しかし、この「鼻緒」・・実は凄い奴なんです。
「鼻緒」は足の親指の股で引っ掛けます。足の親指は足の指達の間でもリーダー的存在でありまして(さすがお父さんです)、彼に力が入ると、自然に他の指達もそれに習い動き出します。もう一度言います・・動き出すのです。
足の指が動き出す・・・動き出す事によって血行が良くなり、温まる。人間の構造上、当たり前の事実です。言い方を変えれば、足の指を(自然に)動かす為に「鼻緒」とはあのようなデザインになっているのです。「冷え性」という特に女性を悩ますモノがありますが、あれは単純に足の指が動いてない、という理由が考えられます。(女性は男性よりも血管が細いという理由もあると思いますが・・)女性の靴を見れば正に一目瞭然ですね。先のとがったパンプス・・ハイヒール・・あれでは動かすどころか、締め付けてしまっています。血行はすこぶる悪くなり、冷たくなる。そりゃ冷えるでしょうね・・・
私などにとっては、あのような履物は「謎」であります。
先にも書きましたが、この例は機能=デザインのバランスが等しくなく、相当「デザイン」に片寄っている為、機能的では無い「モノ」になってしまっています。鼻緒の履物を履いていた昔の女性達は足の指が(自然と)動いていますから「冷え性」は少なかったのでしょうね。「外反母趾」などは皆無だったと思います。

しかし、そうは言っても、会社に行くのにスーツに草履では課長にどやされるのは間違いありません。が、胸を張って言いましょう。
「私は日本人ですから!」と・・・「私は大和撫子ですから!」と・・・
(クビにならない程度にしておいてください)

話はまたまたそれましたが・・・
寒い時こそ、鼻緒の履物で歩く。足の指を動かす。特に冷え性の方は心がけてみてください。
いい事しか待ってませんから・・・

つづく。たぶん・・・

2009年2月4日水曜日

今、日本は空前の漢字ブームだという・・・

さて、
一番好きな漢字は?と聞かれたら、すかさず「無」と答える・・・。
私はこの言葉(文字)に何とも言えぬ神秘を感じずにはいられない。
これほどまでに東洋文化特有の価値観を凝縮された文字はないだろう。
この一文字には、「無い。」以上の「有る。」があるからだ。
私はその中でも、「何も無い中にある美しさ」が好きだ。
何も無い中にある美しさとは、まるで生まれたての赤ん坊のようである。
何も付けず、何も持たずに生まれて来る赤ん坊は、「無」欲であり、「無」邪気であり、そして「無」限である。沢山の「無」を纏い生まれて来る赤ん坊は可能性を多く含んだ「有」である。そして何より、美しい。
要するに「無」という言葉には、「有」の無限の可能性が含まれる。

何とも前向きで壮大な言葉なのであろうか・・・

無駄を嫌い、全てにおいて無駄を省き進化してきた日本文化にとって、この「無」という言葉の重み、深みは正に真髄だと想う。
考えれば・・・なぜ日本文化はこれほどまでに美しく進化してこれたのか?と想った時、
そこにはいつも、必ず、「無」の精神があったはずである。全く無駄の無いものだからこそ持てる美しさ・・・
例えば禅寺に漂う「無」のオーラ・・。そこには何も無い。神も居ない。無限の静けさがあるだけである。目の前に何も無いから目を開ける必要は無く、目を閉じる。するとそこは、無限の宇宙がただ広がっている・・・。ただ・・無い・・という意味が「無」では無い。
私は無限の「有」を感じるこの「無」という言葉(文字)が大好きなのである。

それともう一つの好きな理由・・・それはこの「無」という文字のデザインである。
そもそも漢字にはそれぞれに意味があり、そのモノ自体が省略化&簡略化され、そのデザインに進化してきた。はず。
そこで、ふと想った・・・
「無」とは基本的に「無い」と言う意味。ならば、モデルにするモノ自体も「無い」わけで、
「無い」モノを文字にするという事は非常に難しい作業であるはず。しかし、この「無」という文字は他の文字に負けるどころか、群を抜いて完璧なデザインで存在しており、無いはずなのに、今、目の前に有る・・・
それでは、この文字のモデルは一体何なのか?
(また私の悪い癖である。すぐに答えを探そうとする・・)
「無」をじっと見つめた・・・ただ見つめた・・・
すると不思議な事に、どんどん心から感情が消えていく・・・悠久の時間が流れた。
「これが、無心・・なのか??」気が付けば、目をつむっていた・・
すると瞼の裏にはっきりとある姿が現れた。何とそれは、かの有名なアダムスキー型UFOであった。無・・宇宙・・アダムスキー・・
なんとなくそれらは私の頭の中で線になる・・・
「そっか・・なるほど!先人達はあれを見たのね。見てしまったのね・・。」
(また私の悪い癖である。すぐに直感だけで答えを決めつける・・)

誰にもその答えはわからない・・・

そして、そもそも「答え」などと言うものは、この世には「無い」のかもしれない・・・

2009年2月2日月曜日

裸足の季節 - 第一楽章 -

松田聖子のデビュー曲(古い・・)。ですが、別にその事を書くつもりは全くありません。
年中、裸足に草履で過ごす私にとっては、春夏秋冬、裸足の季節であり、もはや裸足が特別なものでは無くなりました。裸足に草履。の生活を始めてかれこれ10年。お陰で、真冬の寒さにもすっかり耐えられる足が出来上がりました。
しかし、最初の冬は寒かった!・・なぜ・・こんな冬に俺は裸足なのだ???と、自問自答を繰り返しておりました。(答えは草履を履くから・・なんですけどね)しかし、裸足に草履という生活を貫き通し、それにより年々足は強くなっていきました。
で・・その事で一体、何を得したか??
何と、気が付けば「靴下」というアイテムが、身の回りからすべて無くなっていたのです。(もちろん、今も一足も持ってません。自慢)もともと「クツシタ」というアイテムに愛を持てなかった私にとっては「もう、君の世話になんかならないよ」的な、優越感に浸る事ができました。ところで、「クツシタ」ってなんか面倒くさいアイテムだと思いません?? 

一、急いでいる時、同じのが揃ってなかった時などパニックになる。
一、収納時、ペアにする作業はまるでパズルの様だ・・。
一、特に夏場など、単純に・・・臭い。
一、旅行時、洗濯する機会が中々無い場合、バックパックの中で臭いまま保管するハメになる。
一、穴が開き、足の指が出ている姿ほど、ミジメなものは無い・・
一、心を奪われるほどのデザインが無い・・ロックを感じない・・

などなど・・・

私にとっては「クツシタ」というアイテムは好きではないが、しょうがないから履いているという存在でありました。しかし、それも「裸足で草履生活」のお陰によって関係を断絶する事ができました。

クツシタ・・グッバイ・・フォーエバー・・・

「クツシタ」嫌いの方は裸足に草履生活をオススメします。
楽ですよ〜。